娘のピアノ発表会→「人生の縮図」と思える理由

今日は娘のpianoの発表会。

うちは子供の進路ややる事については、一切口出ししないのが暗黙の了解。

長男と次男の高校や大学、自分たちで決めてきた。

それと同じで、娘もピアノがしたいということでかれこれ7、8年くらいは続けている。

中学2年になりキャリアも積んできたため、曲も難しくなってきて、数ヶ月は四苦八苦しながら、家で練習。

発表会で履く靴を、昨日は実際に自宅で履き、ペダルの本番の感覚とのすり合わせなど、一日中練習をしていた。

本番当日。

1曲を最初から最後まで通しで止まらない様に弾けるのが100としたら、残念ながら一箇所つまずいた。

時間にしたら10秒も経っていないと思うけど、親からしたら数十秒に感じてしまう。

ステージの本人は、数分間の沈黙と同じくらい緊張しているかもしれない…そう思うと、すごく辛い気持ちになる。

毎日コツコツと練習して、数ヶ月かけて単音から曲になり、その曲のワビサビ等の強弱が産まれて今日の発表会。

数分という曲だけど、それってキザな言い方をすればまさに人生の縮図だと思った。

数十人が観ている中で、ステージ上でピアノしか音がなく、そのピアノが音を発していなければ、静寂に包まれる。

皆が見てる中、音が止まる。

コレって本人にとってみたら悔しいだろうし、一瞬の沈黙、静寂って、観客の僕たちよりも数倍長いと思う。

焦って、パニクって。

でも、必死に今までの練習で体に染み込ませてた事を頼りに、その無音の状態を打破しようとしてる姿は、涙が出る位感動する。

追い込まれた時、人間の本性が出ると言われるけど、まさにそれだと思った。

本人が「もう嫌だ!恥ずかしい!!」って途中でギブアップして、残りの曲を弾かずに放棄してその場から逃げるのも、自分の今まで練習してきた感覚を頼りに、必死に元の楽譜の線路に戻ろうと努力するのも、選択は自分次第。

完全にパニックになれば、当然元の間違えていない曲の途中まで戻ることはできない。

でも、最終的には、元の練習通りの流れになり、最後まで弾ききった。

人間、失敗するのは当たり前として、要するに、その失敗したあととか、思い通りにいかなくなった次の一手とか、そういったところの選択にこそ、その人の真の価値があると思う。

「PKを決めれる事ができる人間は、外すことを恐れない人間だけだ」と言う言葉は、ロベルトバッジョだったと思う。

清原和博のYouTubeでも、ヒットがなかなか打てない、ホームランが打てない小学生に対して「俺は、メチャクチャ三振もしてるんだよ」と言う様な事を言っていた。

もちろん、人生においても、今日の娘のピアノの1曲においても、失敗せずにゴールするのが一番の理想の形。

娘も、完璧にしたいから、ずっと毎日練習していたけど、結果的には本人にとっては不本意に終わったと思う。

でも、そこで緊張の糸を決してゆるめずに、緊張感を保ったまま、なおかつ、ヤケクソにならずにフィニッシュしたというのは本当にリスペクト。

好きな事とは言え、毎年このような緊張感の中で、ステージの上で「練習した自分」が唯一の味方みたいな時間を過ごしているというのは、本人にとっては凄い成長できている部分だと思う。

本人は、高校生になっても絶対に辞めない、というくらいピアノが大好き。

今、このブログを書いているこの瞬間、娘の部屋からはピアノの音が聞こえている。

今日のことは今日のこと、として、また来年の発表会の為に自分自身と戦う姿は、毎日甘えた自分に活を入れる。

英語の勉強を今日はしたくないなぁ…と思っても、毎日娘が練習している音を聞き、自分もやらなければという気持ちになる。

I’m so proud of you!

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