人生に痛み、苦しみは誰でもある。でも明日があるさ。僕に頼れよ。君が挫けそうな時は。頼むからプライドを捨ててくれ。君が欲しいモノを僕が持ってるなら頼ってくれ。君が素直にならなければ、誰もその必要性が分からないんだ。だから、助けが必要な時はただ声をかけてくれさえすればいいんだ。もし、君が運ぶ事が出来ない位の重い荷物があるなら、俺を呼べば一緒に運ぶさ。助けてもらいたい時は、声をかけてくれブラザー
byビル・ウィザース Lean on Me
落ち込んで悩んで、優しくして欲しい時、上手く行かない時は、目を閉じて僕を思い出してくれ。すぐに駆けつけるから。ただ名前を呼べばいいさ。どこにいても駆けつける。冬でも春でも夏でも秋でも、どんな時でも名前を呼べば駆けつける。だって友達じゃん。
by キャロル・キング(ジェイムス・テイラー) You’ve Got A Friend
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」「我以外皆我師也」「人のフリみて我がフリ直せ」を意識して生活しているけど、若い時は「バカ真似」して気付かないフリして出来てた「何となくの人付き合い」が出来なくなった。
結局、一番大事なのは自分自身ということに気づいてからは、自分のストレスと真剣に向き合い、自己成長、つまり、ベクトルを内側に向けた生活をするようになった。
そういう生活をするようになり、10年近く経つわけだけど、今までバカ真似し、気づかないふりして取り繕うことが全く…というのは大げさかもしれないけど、出来なくなってきた。
半か丁か、そのくらいまでハッキリしているわけではないけど、グレーゾーンというか、そういう余白の部分が少なくなってきた。
それは、結果的に自分自身のことを大事にしているから。
もちろん、相手にとってベストの提案や自分の経験値を話す中で、相手が嫌がることも極力は言いたくないけど、言わなければいけないフェーズ(局面)って絶対にある。
それを言うようになって、友達が離れていったのか、僕は友達から離れたのか、それはお互いの主観によるけど、結果的に今付き合っている人間は、自分の居心地の良い人たちばかりになっている。
もともと友達も多いし、友達よりもう少し薄い知人や知り合いに対しても、「太りましたね」「老けましたね」みたいなガサツな事も言わないし(笑)、接客業だったので、相手を不快にしないように振る舞うことは得意。
協調性もあるし、争いも好きじゃない。
年齢と権威性と一緒に身につく「頑固さ」「横着さ」も無い。
勿論、これらの「自己評価」ってのはあくまでも主観に過ぎず、自分の正当性を伝えたい訳でもなんでもない。
熱くなり、言い過ぎたり、深入りし過ぎたりしたこともあると思うし。
そういう感じで、自分の軸で行動してきたら、必然的に「友達」も少なくなってきた。
自分を粗末に扱う人間とまで付き合いたくないし、会社員や取引先などの兼ね合いの「忖度」の人間関係も無い仕事なので、ストレスを感じる人間関係は必要ない。
それは、いままで友達と思ってた人に対しても同じ。
自分は相手の為を思ってよかれと思ってやった結果で袂を分かつなら仕方ない。
友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立しても良いと腹を決めて自分を貫いていけば、本当の意味で皆に喜ばれる人間になれる。
by岡本太郎
極端に言えば、葬式に誰1人こなくても良い、自分のなかの正義感や倫理感、道徳観で自分の意見を言うんだ、というくらいの覚悟をもっているということ。
子供が、親のことを「口うるさくてうざい」と思っていたとしても、自分が親になったとき初めて「かあちゃんが言ってたことはこういったことなんだな」みたいなのがわかるのと同じで、仮に今、何かのキッカケで音信がなくなったとしても、自分が正しいと思っている事に対して相手が歩み寄ってくれることもあるだろう。
「破れる」事は簡単かもしれないけど、暴力的にならず、論理的にシッカリと話し合った結果、友情が終わったとしても仕方がない。
まあ、逃げてるのは向こうの方だと思うし。
ニコニコして良いことばかりいうのが友達じゃないと思うし。
ときには親の様に親身になる、感情をブツけるのも友達だと思うし。
笑いは誰に対してもできるけど、泣いたり怒ったりするのは本当に考えてる人にしか出来ないと思うし。
それが嫌だって思われたら仕方ないしね。そんなに思われてまでヘイコラして、そのコミュニティや友情を続ける事は自分の為にならんし。
でも、対「友達」や、対「人」に対しては、ずっとビル・ウィザースの名曲「リーン・オン・ミー」や、キャロル・キングの「You’ve Got A Friend」の感じ。