ネット上にいる●●警察やサイコパスやヤバい奴はSNSが産み出したモノなのか、、と考察してみた

香川照之のセクハラ騒動。この前ネットニュースか何かで、瞳孔が完全に開いてホステスさんの髪の毛を掴んでいる写真をみました。

半沢直樹そのままですよね(笑)

一般常識的に考えても、個人的に記憶を辿っても、接客してくれている女性の髪の毛を掴むという神経自体がない為、あの様なサイコパスがニコニコしながらテレビに出ているというのは怖いです。

永久にテレビで観なくてもいいんじゃないでしょうか?

シラフの状態では、本来のサイコパスの性格が抑えられていたものの、アルコールを飲む事によって本来の性格が顔を出すわけです。

「酒のせい」というのも同様で、酒が悪いわけじゃなく、「酒に酔って元々理性で隠れていた性格が出ただけ」の話です。

daigoの「ホームレスは猫の命よりも軽い」発言も、調子に乗ってワインをがぶ飲みしてライブ中に本音が出ただけ。

酒のせいじゃなく普段からそういった事を思っていただけの話です。

僕も酒をやめて10年以上経ちますが、酒癖が悪いこうどうは起こしたことはないです。シラフの時と、酔っぱらった時の自分の性格は一貫しています。

失言や変な行動ももちろんシラフの時と比べ増えていたのかもしれませんが、場を崩したり、相手が不快になったりというような行動は取ったことがない自信はあります。

酔っぱらっていても、常に酔っぱらっている自分を客観視できていたと今振り返ると思います。

と言うか、それ自体も「酔っぱらいの戯言」なのかもしれませんがww

酔っぱらいのタチの悪いところは、酔っぱらっているのに「酔っぱらっていない」と言い張るところですので、自分でそう思っていても、実はそうじゃないかも(笑)

酔っぱらっている状態や、ガッツリとプライバシーが見えている状態ではないにしても、ネットで様々なプライバシーがみれる今の世の中。逆に言えば、「観られている」こと前提で自分のプライベートを公開している人はほとんどだと思います。

香川照之にしても、あの事件がなければ、ニッコリと微笑んでSNSで自分の写真を公開し続けるわけですから、怖い世の中ですよね。

今は、コロナ警察とか、或いは僕の好きなフィットネス界隈での「○○がステロイドを使っている」みたいなステロイド警察、様々な警察がいる時代です。

その警察みたいな人間は、SNSが産み出したモンスターって思う人も居るかもだけど、卵が先か鶏か、で、SNSが産み出したわけじゃないと思っています。

元々そういう性格だったけど、周りが気づかなかっただけで、SNSというプラットフォームの出現で、歪んだ承認欲求が出せる様になっただけの話。

僕たちの年代になると、数十年交流がなかった友達と会ったとき、SNSのアカウントの交換をします。

そして、いざ友達になってSNSを覗くと、政治批判や陰謀論、とにかくネガティブなことを吐きまくっているような友達も沢山いるわけです。

あと、僕たちの年代で、自分のことを自分の名前で言ってたり(リカちゃんね、みたいな)、承認欲求を満たすための自慢のオンパレード、自分の両親のことを「ママ」「パパ」とか言っている友達の投稿を観ると、それだけでミュートにしてしまいます。

そもそも、SNSで政治論を語っている人は等は特に、キリスト教徒の人に、一生懸命仏教の良さを伝えて、変更させろうと思っているようなモノです。

コメントで論じても永遠に交わることのない平行線。

それにも関わらず「キリスト教以外の宗教を学んでいるなんてクソだ」「聖書の良さを知らないなんて人生損してる」みたいな押し付けをしているのと同じ事。

ネット環境が、マジョリティーがマイノリティーと錯覚させる

そういった人たちが増殖している部分だけを言えば、ネットの功績は非常に大きいといえるかもしれないですね。

従来のネットのない環境であれば、周りのコミュニティに1人だけのサイコパスがいたとしても、変人扱いされ、意見は聞いてもらえません。

そういった人たちは、「自分がおかしいことを思っている」自体気づいていないことが多いですが、仮に、サイコパスまで行かないとしても、集団生活を送るにおいて「これはちょっと違うかもしれない」みたいな自分の意見があると思います。

でも、自分を俯瞰して観ることができる人は「今この場面でこれは言わない方が良いかもしれない」「この意見はすごくナーバスな問題だから、ここでの発言は控えよう」みたいになると思います。

俯瞰して観ることが出来ない人が、その集団生活の中からだんだんと外れていくわけですが…

しかし、今ではネットで全国、世界中の人たちと交流が出来ます。

人間が把握できるコミュニティレベルは、150人と言われてます。これは、ダンパー理論と言われ、人がスムーズに関係を維持することができる最大値だそうです。

ダンバー数(ダンバーすう、英: Dunbar’s number)とは、人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限である。ここでいう関係とは、ある個人が、各人のことを知っていて、さらに、各人がお互いにどのような関係にあるのかをも知っている、というものを指す。

ウィキペディア

仮に、この最大値150人の人と繋がっている地域の人間がいるとします。

異業種交流会なんかがありますが、そういったもので関係性を築いていったと仮定します。

そのようなコミュニティ150人の中で、仮にサイコパス的な思想があったとした場合、150人の中では1人しかそんな考えを持っている人間はいないとします。

常識的、倫理的に考えた時、そんな考えは思いも浮かばない、みたいな考え方という定義とします。

本人が、自分のことを客観的に見れるのであれば「150人のこのコミュニティは大事にしたいので、自分の今の気持ちは絶対に人に言っちゃダメだ」となり、本当の自分じゃない自分を演技することでそのコミュニティに居続けることが出来ます。

一方で、自分のことを客観視出来ず、自分の考え方が正義、自分のこの考え方以外の思想を持っている人間を救いたい、みたいな○○警察的な感じたとすれば、150人のコミュニティにはいる事が出来なくなるでしょう。

でも、それは、地域の話です。

ダンパー理論が本当に正しければ、最大値で150人のコミュニティが限界ですので、自分の地域でそれだけの人間関係を築く大変さと秤にかけ、忖度や自分の意見を押し殺す選択をしてる人がほとんどだと思います。

でも、その150人のコミュニティの数千個の集まりが今のインターネットの現状になります。

Amazonのロングテール理論で、150人の中では1人、もしくは0人の考え方であっても、分母が100倍になれば、それだけ分子の数も増えてきます。

なので、リアルな地域生活では完全なるマイノリティだった人間が、「ほらみろ!俺の考えが正しかったじゃないか!このイイねとリツイートを見てみろ!」みたいになってくるわけですよね。

結局そういう人たちって、承認欲求を満たす場所がなかったわけですから、分母が増えたことによってリアルなつき合いの環境下では1人、もしくは0人だった同士達がどんどんと増えていく錯覚になり、「われこそは正義」みたいになってくるのじゃないかなと思ってます。

まとめ

つまり、その考え方自体はもともとその人が持っていったものです。

酒の力を借りて、自分がいつも押さえ付けられていた欲求を爆発するのと同じですよね。

とは言え、一般的な社会生活に於いてはマジョリティーだった人たちが、分母数が増えてることで分子も必然的に増え、ロングテール理論で寄せ集めると増える、という部分では、ネットのコミュニティというのは助長している部分なのかなと思っています。

僕は、子供とSNSで繋がるつもりは今後もありませんが、子供がボクのSNSをみたときに、「筋トレなぅ」「筋肉痛でまじぴえん」「ただいまトレーニングちぅ」とか書いてて、引かれないような投稿を心がけてはいます(笑)

 

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