11月1日、図らずとも「ワン、ワン、ワン」の日が、ナナの命日になってしまいました。
昨日まで、あんなに元気だったのに…とびっくりしましたが・・
今日の朝、調子が悪そうで、お昼過ぎにナナが立てなくなりました。
抗がん剤治療が2サイクル目になり、3週間に一度の抗がん剤治療。
先週初めての「強い薬」投薬。
明日土曜日は、第2週目で「検査」ノミ。
一週目の新しい薬に期待していましたが、喉のしこりは全く取れず。
とは言え、食欲もめちゃくちゃあり、散歩も一日2時間。物すごく元気だったのですが、突然今日悪くなりました。
15時過ぎぐらい、仕事をしてたら、妻が「ナナが変」って。
見に行くと、自分で立てないくらいにフローリングをフラフラ。
慌てて先生のところに診せに行きました。
抗がん剤の効果が全くなく、立てない状態。
病院に連れて行った時は、家を出る時よりもかなり悪くなっていって、呼吸も荒くなり、今にも死にそう。
1サイクル目に、寛解したのですが、薬の抗体が出来てしまっていて、2サイクル目の薬がほとんど効かなくなってきました。
呼吸も荒く、息をするのもきつそう。
安楽死を選択
通常、抗がん剤治療は寛解を目指すのですが、ナナの場合は寛解は厳しいとのことで、寛解の下の「QOL(クオリティーオブライフ・・人生の質)を維持する」ことをベースにしていました。
犬のQOL(クオリティofライフ:人生の質)は、散歩に行く、ご飯を美味しく食べる。
先生の経験値からしても、今後抗がん剤治療の選択肢がほぼない状態。
あと2週間、何の薬もない状態でこの状態が続くのはナナがかわいそうです。
QOL(クオリティofライフ:人生の質)が維持できるのであれば、大げさではありませんが「私財を投げうって」までも治療をするつもりでしたが、かわいそうな姿を観たら「頑張ってくれたよな」って気分になりました。
ですので、先生と話し合った結果、安楽死を選択しました。
沢山の人にみとられて
19時に病院に行く段取りをして、家族でナナのもとに向かいました。
産まれて初めて、ウンコの垂れ流し、ヨダレはダラダラ、ビックリする位の弱り具合でかわいそうでした。
息子もバイトが休み、家族5人とおばちゃん、ナナを可愛がってくれている姪っ子も、バイトを途中で抜け出して最後のお別れに来てくれました。
最後は、あんぱんを買っていってあげたけど、当然見向きもせずに、呼吸は荒く、とにかくきつそう。
ナナとお別れするツラさよりも「このキツい状況からラクにしてあげたい」という気持ちでした。
注射を打って、眠るようにして呼吸がなくなった。
悲しさよりも、ラクになってよかったね、と言う気持ちでした。
昨日はあんなにげんきだったのに、一昨日も、昨日も、いやしんぼで、僕が食べるものを最後の最後まで「頂戴頂戴」してたのに。
こんな感じで、ナナが横にいないのは何となく実感がわきませんが幸せでした。
安楽死の選択と、死を受け止める強さ
犬は話せません。人間だったら「今日はキツい」「今日は熱っぽい」「○○が痛い」と言語化が出来ます。
でも、犬はできません。
僕は、今年の2月から始まったナナの抗がん剤治療について、最初はめちゃくちゃネガティブな気持ちしかありませんでした。
それは、僕のおじさんが長年癌で苦しんでいて、抗がん剤治療をしていた時に「こんなにキツカッたら、俺はもう死にたい」といって抗がん剤治療を辞めたからです。
ナナは、今年の春を待たずに死んでた命。
3~5回ぐらい、今年は医学に助けられました。
QOL(クオリティofライフ:人生の質)が維持できるのであれば、それこそ私財を投げうってでもナナに生きて欲しかった。
でも、人間とは違って、ナナは「医学で生かされている」ことすら気づいていないでしょうし、感謝すらしていなかったでしょう。
だから人間のエゴで「いなくなったら寂しいから」という理由で医学に頼るのは僕は違うという考え方です。
あくまでもナナ主体。
と言うのも、8月の末にナナが子宮蓄膿症で施術をしたとき、オムツをしたまま、息をしているだけの様なウンコが入院していました。
話を聴くと、ナナよりも若く、起き上がることもできないし、排泄もできないし、ご飯も点滴とのこと。
そして、時が過ぎて、10月の最初、ナナが緊急で運ばれた時も、そのワンコが同じ状態で入院していたんです。
ナナは抗がん剤治療の薬を打って、メチャクチャ元気になって退院しましたが、その子は、2ヶ月の間、ほぼ同じ状態で入院してたんです。
それを見たとき、やっぱり人間の主観ではなく、ナナの主観に立ち、引き際を決めてあげるのも「飼い主としての使命」と感じました。
「ナナがいなくなったら寂しい」と言う人間のエゴを貫き通せば、おそらくナナもあと1ヶ月とか2ヶ月くらいは生きていたかもしれません。
でも、そんな状態で命を続かせるのも、言葉をしゃべれない犬からしたら拷問レベルなのかもしれない。
「医学に助けられた」と言う部分で考えれば「安楽死という選択をして、最後も医学に助けられてラクになれた」のかもしれません。
それは、ナナじゃないから分からないけど。
ナナがいなくなる生活が今日から始まるけど、どうなるのかは全く見当すらできないです。
ほぼ毎日、家で仕事をしている僕とナナは一緒でしたから。
でも、人間のガンと同じで、民間療法とか、いなくなったペットと話ができるみたいな広告はヘドが出ます。
ナナが死んだというのは「ペットボトルに半分の水」と言う「事実」なので、それを粛々と受け止めるだけです。
「ペットボトルの水が半分」と言う事実は変えることはできません。
でも「あと半分も残っている」と思うのか?「もう半分しか残っていない」と思うのか?というのは自分自身の主観。
ナナの死を引きずって、ナナと話ができるとか、そういう類の焦燥感はありません。
家族がいなくなった、というのは、深い悲しみなのは間違いありませんが、だからといって、仕事が手につかないとか、人生お先真っ暗とか、ペットボトルの水を満タンにしようみたいな感覚は全くないです。
犬は人間よりも早く死ぬのは当たり前の事実。
そういう悲しい別れに「隙いって」あやしいスピリチュアルな考えになる事もありません。
ポエムの様なナナを引きずった投稿をする事もありません。
でも、ナナがいなくなった、という事実は、僕の中では深く深くツライことです。
家族も今、深い悲しみにくれています。
でも、明けない夜はない、やまない雨はない、なので、この傷も徐々に癒えていくと思います。
今日のお昼にさんざん泣いたけど、安楽死の選択肢をしたときに、後悔があるかもしれない、と不安でしたけど、家族みんなでナナを見た時、あんなにツラいナナをみたら、安楽死という選択は良かったなと思いました。
抗がん剤治療に関しては、ほぼカードを切った状態で、僕としても経済的理由でギブアップしたわけじゃないので、手前味噌ですがナナの為にできることはできた、と思っています。
皆さんも、大事なペットとサヨナラする時があると思いますが、引き際はしっかりと「犬目線」で考えて欲しいなと経験的に思います。
そして、悲しみにくれることはなく「ペットボトルの水が半分」という事実をしっかりと受け止め、過ごした時間に感謝する事が一番なのかなと思います。
ナナがうちに来て、幸せだったのかな?と言う気持ちもあるし、望むことを全てしてあげてないという後悔もあります。
でも、家族として接してきたという気持ちは嘘じゃないし、安楽死という選択も、ナナのことを考えてのこと。
そういう意味では、後悔はありません。
ナナ、うちに来てくれてありがとね!!ずっと大好きだよ。
コンビニ変わるだけで、いつもこの驚き🤣🤣成長しないおバカな所もワンコの愛おしい所。ちなみに写真ではなく動画です🤣🤣 https://t.co/wnZmtD3ANd pic.twitter.com/CX371lBawX
— ナナ14歳@2週目の抗がん剤治療中で頑張ってます❤️🐶 (@nana_female) May 28, 2024